胴間声の魅力

この夏、桐生でクルトヴァイルをテーマにしたコンサートがあった。そうなると主役は瀬間千恵さん。瀬間さんは60才以上の人には知れ渡った存在だろう。クルトヴァイルの歌い手として日本でも貴重な方である。妖艶な美貌でかつては銀巴里の女王と云われた存在らしいが、鼻垂れ小僧だった僕は往時を知らない。

その日、早朝から桐生に向かった。裏方応援を頼まれたのだ。知人の録音ミキサーが本来はやらないPAを行うという。なぜか。実は今回のコンサートには音響的裏話がある。
演奏会の行われる桐生市民文化会館では定例コンサートが行われているが、その音楽監督が大嶋義実先生。日本では京都市立芸術大学で教壇に立つ先生だが、元プラハ放送交響楽団の主席奏者。実はこの大嶋先生が大のオーディオファンで、音を非常に大切になさっている。通常のコンサートはクラシックなのでPAをいれることは無い。けれど今回の場合は瀬間さんのヴォーカルが主役。PA音響無しとはいかない。しかも途中、ボーカル無しの純然たる器楽演奏が、ノンPAで入る。クルトヴァイルは、純クラシック曲も作曲していたのだ。
こうなるとホール備え付け程度の装置では、とてもお客様に聴かせられない。生とPAとの落差が激しすぎる。来場の聴衆は殆どが常連さんで、日頃クラシックの生を聴きに来る方。馬力一本槍のイカツイPA機材の音を聴いたら逃げ出すだろう。会場は300人ほどの小ホール。ピアノはスタインウェイ。

紆余屈折があって、スピーカーにはパイオニアのスタジオモニタ2404が選ばれた。これに同社の最新機材でデジタルチャンネルデバイダを使い、ホーンドライバとウーハーとの遅延時間を合わせたシステムだ。ウーハーの駆動アンプはFMアコースティック社のFM-1000。
スピーカのセッティングには、パイオニアにこの人有りといわれるH氏。TAD一筋の方。パイオニアといえば僕の古巣。懐かしい顔ぶれに心が和む。
ケーブル運びなどをやる見習いボーヤはいないから、オジサンの僕がマイクスタンドなどを立てた。 一通りのセッティングが終わって音の調整を始めた頃、早くも瀬間さんが現れた。まだ調整は終わっていない。 会場にPAを入れると、ステージ上にハネ返りモニタがないと演奏がしにくい。これが又音を悪くするので今回は最小の2個。瀬間さんから、歌いにくい、響きが無いと、クレームが。PAスタッフは調整を進める。僕はステージモニタの位置調整に走った。
小1時間ほどで、これで行ける、というポイントが決まった。不思議なもので、この一瞬は、客席側でモニタしている僕達も、会場片隅のPA席のミキサー氏も、主役の瀬間さんも、全員が、「これでいい」とい言い出す。音が決まる瞬間とはこんなものだ。

さて、今回のPAは音を大事にするから、マイクもワイヤレスを使っていない。デジタルチャンデバを使うので、ミキシングコンソールもヤマハのデジタルタイプ。記録メディアを通さず、ADとDAを行って、その場で生楽器の音と空間で合成されるわけだ。生音と仲良く、相性良く合成されないとまずい。会場の前方では、生の音が主体。後方ではPAの音が主体。中央だと半々。そのようなレベル設定だった。  さて、僕は通しのリハーサルと本番。2回をしっかり聴いた。リハのときは会場内の様々な場所で。
過去に体験したことのない素晴らしいPAだった。これほどナチュラルなPAは聴いたことが無い。僕がどんなに誉めても身内びいきに思われるだろう。しかし、会場にはあの「別れのサンバ」で有名な長谷川きよしさんがいた。後日談だが、自分のコンサートのときも、こういう音でやりたいと。この言葉がなによりの評価だろう。

瀬間さんの発声は身体の共鳴を使う。さすが声楽科出身。華奢な体つきからは想像できない太い声も。CDでは仲々これが出ない。最近オーディオ界では使われないが、胴間声という言葉がある。昔のスピーカーはキャビが弱く、響きすぎて胴間声になった。最近はカチカチになりすぎて欲しい響きすら出ない、と思っていた。ところが、今回のコンサートでは、ガッチリスピーカー代表の2404から堂々たる胴間声が聞こえたではないか。瀬間さん自身が、身体全体から発している響きなのだ。
このライブPAの電気経路はシンプル極まりない。しかも驚くべきはリミッタもイコライザも全てオフ。やりたくても、これが出来る条件が揃うことなど、滅多にないことだ。その意味でも貴重体験だった。
後日、僕は瀬間さんのCDから、もっとその声の、低音の響きが出せるはずだと睨んだ。間違いない。それはもう確信と云てもよいものだ。

両手のひらで水をすくう。指と指の間、手と手の間に隙間があれば水は漏れる。まともな再生には、一滴の水も漏らさないような神経の細やかさが要求されるのだ。
音にまみれ、格闘すること2週間。どうやら、その求めていた響きが出てきた。今まで出来なかったハードルを越えたとき、あと一歩だった新製品開発の答えが生まれたのである。

CDタイトル:瀬間千恵のクルト・ヴァイル
CD番号:OMAGATOKI SC-5118