それは昨年の晩秋のことだった。
新宿さくらや裏にあるカレーショップ、ガンジー。
この店のオーナーMさんから突然メールを頂いた。
このお店のことを僕がWEBに書いて一月ほど経っていたのだが、メールを読んで僕は驚いてしまった。
あの音は本物だった・・・。
私信なので全文を公開することは控えるけれど・・・。
Mさんのメールには、
「音のイメージは30年位も前のピットインが原点にある」
「4-5人までのコンボでの演奏が基準である」
「20代の始め頃、ピットインで働きながら聴いたナベサダや日野照正、あるいわ山下洋輔トリオ、そういった人たちの演奏、そして音響がいつまでも耳に残っている」
「限られた条件のなかで出来るだけ再生したいと思って、悪戦苦闘してきた」
・・・・などの事柄が丁寧に書かれていらっしゃった。
さらに
「たまにあの店に徹夜で泊まり、朝まで思う存分ピットインの再現を楽しんでいる」 という下りを読むに至っては、僕が夏に聴いた「あの音」の秘密を教えて頂いたような嬉しさと、そして自らの洞察の浅さに恥じ入る気持ちとが複雑に入り交じって、感情の高まりを覚えてしまった。
Mさん僕も同じ団塊の世代。
あの三島由紀夫の割腹自殺の有った日、おなじ新宿の目と鼻の先にいたことなど、驚くことばかり。
Mさんはその後NYへ旅だったという。
さて僕は、ガンジーの音に対する不覚を次のようにお詫びした。
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不覚にも小生は、ガンジーの音は「本格的にオーディオを(自宅で)やっている人の余興」と認識しちゃったのです。
オーディオ的な性能が前面に出ず、力みが無くスムーズでバランスがひたすら自然。
ニューヨークの裏町で聴けそうな、とでも言いたくなるような陰影のある音・・。
奇抜なデザインで、近代的で、或意味オーディオチックなB&Wから、あのような音を出しているのが不思議でした。
サブシステム故にまったく何もこだわらないからなのか、、それとも、よほどの達人か・・・。
小生にとってオーディオとは、
「自己の内で鳴り響く音や音楽を目の前の装置で出そうとする(ささやかな)自己表現」
としています。
逆にいえば、自己の内で音楽が鳴っていない人は永遠に、音楽以前の音しか出ない・・のですが。
(中略)
ガンジーの音も細かくは覚えていませんが、
核心だけが印象に残っています。
心の中に残った音、それが真実の音ではないか。
最近、音についてそんな風に思っています。
心の中で美化されてもよいのです。
美化される価値があったということ。
それこそ真実だと。
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ガンジーの音には、ピットインの匂い、或いはコルトレーンの死後数年しか経っていないNYの匂いが、きっときっと隠されていたにちがいない。
しかしその匂いは、嗅ごうとして鼻をピクピクさせても分からない。
同じ時代を生きてきた動物が嗅ぎ分ける臭いなのかもしれない・・・・。
たった一瞬出会った音の世界。
その音を挟んで、30数年前と現代をタイムスリップしながら成り立った会話。
インターネット時代ならではの奇遇を感じた出来事が、僕にはとても嬉しかった。