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(特別編)audio sharing ML発言集

今や伝説的にさえなった故岩崎千明氏、故瀬川冬樹氏・・・そういう人たちのオーディオ評論文をWEB上に掲載しているMさんと知り合ったのは数年前のことだ。
古い雑誌から気の遠くなるほどの活字をデジタル化していく作業は並大抵のことではないだろう。
Mさんのオーディオへの限りない情熱と、かれこれ中年にさしかかろうという年齢なのに十代の青年のような爽やかな笑顔が、会う人を皆元気にしてくれる。

その彼からメーリングリストを始めたいう知らせを受けて、僕は一も二もなく賛同した。
この頁の読者の中から一人でも参加を希望する方が現れてくれたら嬉しい。
そこで、今回は僕の発言の中からいくつか拾って紹介してみることにした。

audio sharingのホームページ  http://www.audiosharing.com

掲載に当たり、前後関係を補足する意味合いもあって、一部補ってあります。

演奏が装置に求める音

男性ファンが圧倒的に多いオーディオ族ですが、聴いている、あるいは掛けている円盤ソースは、静かで綺麗なピアノトリ、なんていうパターンに結構多く遭遇します。
カクテルラウンジのような当たり障り無い優しい音楽。
こういう場面では、命を削って演奏したコルトレーンなんてかけても、あまり歌ってくれません。表面上の綺麗さ、それ以上のものが表現できていないことが多いんです。たとえ38センチの大型ウーハーでも。

逆に、12センチ口径程度の2WAYでも、しっかり黒人ブルースの名盤を聴き込んでいたお宅では、カウントベイシーもコルトレーンも、見事に炸裂してくれました。モノラルのフルトベングラーだって、凄まじいエネルギーを爆発させてくれます。

凄い演奏の中にある「凄さ」というものは、聴き手であり装置の遣い手に対して、その「凄さ」のエッセンスを出させようとしてくれるようです。
でも調整を間違うと、すぐに「そうじゃないよ」と教えてくれるのです。
どういうレコードを選ぶのか。
オーディオとの勝負なんて、音を出す前に、もうすでに決まっているじゃあないか。そう思います。

情報量という言葉から連想すること

オーディオ評価用語で情報量という表現に出会ったとき、なんともいえない違和感を感じました。オーディオはコンピュータじゃあないぞ、というアレルギー感もあったのかも知れません。
生の音楽聴いて情報量が多い、なんて思わねえぞ!とも。

そもそも数量のような概念で評価していいものじゃあないだろう、という反発もありました。
音という「計り知れないもの」を評価するに当たって、オーディオ界では過去に限りなく数字競争をしてきました。周波数レンジ競争、歪み率競争、ワット数競争・・・、ちょっと前にはビット数競争、サンプリング周波数競争、最近では一部でクロック精度競争もやっていますね。
要は、複数の要素が絡んでいる音質要素を単一の視点にだけ注意を向けさせ、手持ち機器に劣等感を抱かせたり、他社との差別化を明確化して購買意欲をあおる、そういう、あざとい販売手法や、単純明快な「いい音、悪い音」的な評価軸を作り出してきたたわけです。

今度は情報に「量」というあたかも「計れる」がごときイメージを抱かせる用語を使って、目に見えないけれど数字があるように思わせ、またもや目をくらませようと云うのか!
なあーんて、ちょっと悪態をついてみました。

しかし、情報量が多い少ないといえば、普通の人は多い方がいいに決まっている・・・と思うでしょうね。皆さんの書き込み、僕が書いたモノも含め、多い方が良い、よかった、減ってガックリ、という論調のモノが殆どですね。
機器メーカーも悪意で無く(笑)、素直に信じて増やそう、と思っているでしょう。
(見直してないけれど、このイルンゴWEBサイトのどこかにも、知らず知らずに使っているかも知れない)

しかし、世の中には減らそうと考えている連中もいるはずだ、と思います。
真っ正直なな録音エンジニアは録音の時、色づけをせず客観的に全部録音(記録)したい、と願うかも知れません。
主張をもったエンジニアなら、全部記録なんてできないこと知っているから、何を切り取ろうか、と、すなわち主題や主役をどう扱おうかと、音の構図を考えるでしょう。
余分な情報を切り捨てることで、主題を浮かび上がらせる。これはあらゆる表現分野で知られる「表現手法」「情報伝達手法」です。
新聞の見出しなんてその最たるものですね。

録音ほど自由度は多くないかもしれませんが、再生でも情報の取捨選択が、再生者の意志で行われても良いわけです。
情報が多い方が良い・・という一方的な価値観が刷り込まれてしまう前に、情報をどのように扱い自分のものとして判断して、音として出していくか。
これは「内容への判断」と、「表現する技法」の両方が自分に備わっていない限りできることではありません。
しかしオーディオの腕前とは、「そういうもの」でしょう。
腕の立つ人は、一体型CDプレーヤとそこそこのプリメインアンプでも、十分な音(音楽)を出す。
下手な人は何千万円かけてもダメ。(ああ、カメラとそっくりだ。)

歴史を振り返っても、ムービーが出てスティール写真が、カラーが出て白黒が、それぞれ芸術の表現手法として確立、認知されていきました。
表現の世界において、情報量は多ければ良いというものでもないのです。

オーディオもそろそろ、「忠実度再生」という概念の呪縛から逃れ、「表現」という概念に飛び立って欲しいですね。
そのとき初めて、音楽を聴くという行為が受け身でなく、能動的な、そして創造的な行為になる、と確信しています。

最後に・・・。
僕自身の考える表現手法は、もの凄ーく沢山の微細な音の領域まで求めるので、非常に多くの「情報量」を要求してしまっているようです。(笑)
しかし多いから良いのでなく、僕にとって必要不可欠な要素なので、音に、装置に、要求しているだけなのです。
絵に画風があるように(音には「音風」?・・)それぞれのスタイルがあってしかるべきでしょう。
イラストのような少ない情報量の画風も有れば、膨大な情報量を必要とする超リアリズム的画風もある。
音もしかりだと思います。

AB比較試聴法について

よく聴き込んだ知っている(つもり)の試聴装置に未知の機器やケーブルを挿入するヒアリングテストについて。

AB比較方法は、2者の差異をクローズアップするには、分かりやすい方法とされています。しかし、試聴条件を変えると、評価が変わる危険性もあります。
たとえば・・・。
古いJBLのユニットだと、端子に鉄ビスが使われています。こういうところに、最新高性能ケーブルは、必ずしも合うとは限りません。鉄の磁気ひずみが露呈することが多いのです。

ケーブルもアンプも、「装置」を構成する一要素です。内部では、電気的に直列ですから、影響度は、長さが長い分だけ、ケーブルの方が音質影響度は大きいかも知れませんね。
オーディオはトータルな装置です。
ケーブルも、機器内部配線も直列に接続されているわけで、電気的にみれば、四角いケースに入っているかどうかの違いだけです。

SPケーブルの場合を例にするなら・・・。
SPケーブルは、SP端子、アンプの中のリレー接点、パワートランジスタ、ケミコン、トランス、・・・、或いはネットワーク各部の材質,SP内部のネットワーク・・・などが全部直列に、(或いは並列に)繋がっています。
普通の人は、部品や素材固有の音質など知らないでしょう。
さらに内部の配線はその配線ルートのとり方で音質も変わります。

すなわち、未知数が、1個だと思っていた試聴装置には、5個も10個も、或いは数十個、いやもっと多数の未知数が隠れているのです。
メーカーはそういうものが表面にでないように上手にまとめているつもり発売しているので、聴き手も(そういう諸々を)全部ひっくるめて、その機械の音、として理解してるつもりになっています。
しかし、時としてそれら(内部に潜む諸々)が顔を出すのです。
ただ、素材固有の音を知らないと、あれこれ、色々な形容詞を並べるだけに終始するしかありません。
世に多く存在する比較試聴という行為。

この行為は
「沢山の未知数が有るのに、たった一つの方程式で解を得ようとしている行為」
に似たものであることを認識しておかないとないといけません。
聴いてみないと分からない・・・と云われるオーディオですが、経験が浅いと、聴いてみても表面上に起きた変化量しか分からない・・・というほうがむしろ普通なのです。
逆に中身にまで精通すると、かなりの機器が、聴かなくてもその機器の音質上の限界能力が想像や予想ができるようにもなるものです。

「ハイスピードな音」という音質表現について

現代のオーディオ評論でしばしば目にする「ハイスピードな音」という表現。この言葉の意味合いを突き詰めると結局以下のようになるらしい。

「ハイスピードな音とは 硬い音や派手な音のことではない。入力された信号どおりではなく誇張された立ち上がりをハイスピードだというのは誤解である。」
(すなわち入力信号どおりに高速で追随するのがハイスピードだ、ということ)

(上記に対する私見)
つまり単に波形に対する応答性、忠実度が良いという昔ながらのHiFI思想というわけですね。
もちろんこれはこれで、オーディオの基本的な、かつ重要な思想です。
結局「ハイスピードな音」とは言葉としての新鮮な?響きがあったかもしれませんが、根底の思想には、目新しいものは何もない、というのが結論なのでしょうか・・・。
オーディオ評論の文章の中に使う「言葉」には、時代を感じさせる新しい響きも、読者は潜在的に要求しているでしょう。
しかし、音楽を例に取れば、あ、70年代のサウンドだなあ、と分かってしまうものは、やはり表面的な響きです。流行サウンド。こういうモノを、僕は「刺激」と呼びます。
評論文の表現には、深く読めば読むほど根底に時代を切り開いた思想や背景が感じ取れるものを、私自身は望んでいます。
なお、「刺激」と「感動」は違いますが、多くの人が勘違いする要素です。

ボーカルのサイズ感について

音量を上げると大口になる・・・というのは、聴感上、低域から高域までの応答速度がずれている・・そう感じるような場合・・・・に頻繁に発生するように思います。具体的には低域の反応が遅いように感じるときです。
測定上は変わらなくても聴感上の「感じ」としてそう感じるとき、という意味です。
こういうときは、たいていの場合、音がSPにへばりつていて、空間に解き放たれていない・・・と感じます。

レコード化されて世界に発売されるクラスの歌手の歌声は、体躯に響いて、声帯と口のサイズよりずっと大きなボディ感を感じる事の方が多いと思います。
また声の帯域を考えても、ウーハーがまともに働けば定位はピシリと決まっても、音像としては、そこに人間の口のサイズでなく、身体のサイズを感じる方が当然のように思えます。
調整がきちんとなされた装置では、音像は写真のような平面でなく彫刻のような立体的な像となって、サイズ感もリアルに出ます。

私が聴くジャンルに限れば、一流どころは、ポピュラー系でも立派な発声をしていますので、骨格にまで響かせた声を、口腔を通じて発しマイクに入力してくれています。
因みに、ボーカルの口元サイズが小さいと喜んでいる人の装置の多くは、サックスも小さくウーハーが歌っていないときが多いような気がします。
サックスも身体に響いて音を形成していますから、大きな骨格をした人でないと出ない図太い音というのが有るんです。
従ってマイクを朝顔に向けているからといって、楽器の「あのサイズ」を連想するのは誤解だと思っています。同じ理屈で、口元のサイズも・・・です。

なおボーカルの口元の定位がボケル(大口)ということと、ボーカリストのサイズ感とは、違う、ということを念のため加えておきます。